第9回荻窪講談演目補足情報

「時代物」である講談は、時間の制約もあり長編物語の一節のみ演じられることが通常です。そのため、その物語の時代背景や大まかな全体ストーリーを知っていると、より深く講談を楽しむことができます。今回は来る11月5日(水)に行われる第9回荻窪講談の演目補足情報を掲載いたします。こちらをお読み頂き、それが演者によってどのように語り演じられるかを楽しみに、ぜひご来場ください。  今回は、義士特集のため、「赤穂義士伝」についての説明に致しました。※下に講演のパンフレットPDFファイルあります。

「赤穂義士伝とは?」
曽我物語、伊賀越えの仇討ちと共に、三大仇討ちとして有名な「赤穂義士伝」ですが、事の起こりは今から300年余り前の元禄14年3月14日の「江戸城松の大廊下の刃傷事件」から始まった実際にあった物語です。
毎年将軍家では、年の始めに京の朝廷の元へ祝儀の使者を上洛させ、その答礼として3月に今度は朝廷の使者(勅使)が江戸城へ下向いたします。元禄14年の勅使おもてなし役は、播州赤穂の城主・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)で、その指南役は高家の筆頭・吉良上野介(きらこうずけのすけ)でした。
3月14日江戸城の松の大廊下で、浅野が吉良を斬り付けた事件が勃発。その理由は、浅野内匠頭が吉良に賄賂を渡さなかったので、散々に意地悪をされた事への遺恨からとも言われますが、その他の説様々ございます。この時吉良は、大した深手も負わなかったのですが、殿中で刀を抜けばお咎めは必定。しかも大切な饗応の日だったので、将軍綱吉公は激怒して、浅野内匠頭は即日切腹、お家改易の処分が下されました。これに対して、刀を抜かなかった吉良上野介はお咎めなし。
国表でこれを知った城代家老の大石内蔵助は、同志と共に復讐を誓います。というのも、300人余りいた赤穂藩士は、亡君の遺志を継いで吉良を討とうという急進派と、お家再興を望む穏健派に分かれましたが、浅野内匠頭の弟・浅野大学が広島にお預けとなったことで、浅野家再興の望みは絶たれてしまったからです。
数々の苦難に立ち向かいながら、刃傷事件から1年9ヶ月後の元禄15年12月14日の未明、いよいよ大石内蔵助ら47士が吉良邸に突入。吉良さまの首を討って、浅野内匠頭の墓のある泉岳寺へと引き上げる。「これぞ武人の鑑」と、人々は彼らをたたえました。時刻は、朝の六つ(午前6時)で翌日になるので、討ち入りの14日の未明は、今の時刻では15日の明け方。元禄15年12月14日は、今の暦では1703年1月30日にあたると言われています。
47士のうち、足軽の寺坂吉右衛門をのぞく46士は、細川家(大石以下17名)、松平家(大石主税(ちから)以下10名)、毛利家(10名)、水野家(9名)の四大名家に預けられ、翌元禄16年2月4日に切腹を致しました。
講談の「赤穂義士伝」は、本伝、銘々伝、外伝と分かれ、たくさんの物語が古典講談として今に伝わっております。